結局何が言いたいのか?

主題がはっきりしないため、何を言いたいのか分からないニュース記事が多くて困る。

J-CASTニュース : 一番の関心事は貯金 20代は「かわいそうな世代」なのか

酒を飲まない。車を買わない。休日は「家にいる」

つまり消費をしない若者、という話題だと思ったら途中から話が180度変わって

20代がお金を使わずに貯金しているのは、自己投資をしていないのと同じ

なぜか投資のすすめになっている。

一体これは何が言いたいんだろうか。このように文章に一貫した主題が無いため、全体的に散漫な文章が目立つ。たとえばはてな界隈でも話題になったMacBook Airの分解記事を例にして、最初のパラグラフを引用すると

MacBook Airの外観は無駄がなくてスマートですけど,中身は無駄ばかりってことですか?」。作業の後に宇野記者が発したこの一言が,分解を終えた技術者たちの感想を代弁していた。

まず「無駄だらけ」と言い切っている。ああ、そうなのかAppleのハードウェア設計力は低いのかと思う。この理解は最初のパラグラフを読む限り、誤読ではなく正しい理解である。ところが、「無駄だらけ」は主題じゃない、誤読だ、その無駄には理由があるんだ最後まで読め、と後出しでいうのだ。だが、いきなりAppleをDISられて面白くないMac信者は「またアンチマカーが何か言ってるよ」と思って後の文章なんぞ読まないかもしれない。最後に書かれているという筆者の主張をあまねく伝える事ができるのだろうか?

読者が最後まで読むという想定が間違っている。忙しい現代人は最初の3行を読んで自分に関係ないと思えばその先はもう読まない。だから言いたい事はタイトル、そして最初の3行に詰め込むべきなのだ。そうすれば少なくとも誤解はされず、続く詳細が読まれなくとも筆者の主張だけは読まれる。最初のパラグラフのトピックは文章全体の主題となるべきなのだ。

事実、自然科学系の論文や総説などは全てタイトルそしてリード文が主題の要約になっている。欧米では新聞などもそういう構成にするのが一般的だ。後から付け足したように現れる文章など、ステーキのコーンの付け合わせぐらいにしか思わない。だからWired Visionのような誤解に基づいた反論記事が書かれてしまう。彼らは自分たちが誤読しているとはつゆも思っていない。

文章の最初と最後で主題が異なっているような文章構成は、日本の文化なのかもしれない。しかし、それでジャーナリズムが成立するのだろうか?ほとんど無限に等しいリソースがあるWeb媒体とはいえ、毎回5ページにも渡る弁解を掲載するなど考えられない。例に挙げた2つの文章を見ると、これは本当に言いたい事を伝える気があるのかと疑問を持たざるを得ない。誤読されたくなければ、誤読されないために文章全体で一貫した主張が必要なのだ。