閉塞した科学に風穴を開けるなんて簡単だよ

ベタすぎて釣りにしか見えない。全力で釣られてツッコミたいのは山々だが、それはこちらの素晴らしいエントリにお任せしよう。

それは多分レイヤーの違い。違う次元の話なのだから、その現象を科学的に捉えてもダメのような気がする。

http://d.hatena.ne.jp/hasenka/20070727/p3

そのとおり。水伝の言う美しいものは正しいという価値観は科学ではない。しかし、彼らは、それを科学であると吹聴しているから非難されている。

しつこいほど何度も言うが、科学で物事の善悪を決める事はできない。善悪を決めるのは人間であって、自然現象ではない。もちろん科学で得られた知識の利用法に関しては大いに議論をすべきである。原子爆弾は悪かもしれない。原子力発電は分からない。だが核分裂という自然現象には善も悪もなく、イデオロギーとも無関係に発生する。

科学は常に正しいのか?

以前から「科学は正しい」とか「科学を信じる」という表現に疑問を持っている。科学とは正しい、正しくない、信じる、信じないという二元論的なものなのだろうか。

水伝が主張する科学的事実は、ありがとうと声をかけると奇麗な結晶ができるという単純な現象である。もし本当にこれが再現性のある現象ならば、それは科学として扱う事が出来る。また、霊魂が本当に存在する(人間が知覚できる=他と相互作用する)ならば、それも科学として扱うことが可能である。「魔法」でもいい、「気」でもいい、現象が存在するならば何らかの方法でそれを捉え、観察し、定量的に測定することができる。

科学とは手続きであり方法である。現象を観察、分析し、「信じる」「信じない」といった主観的な要素を排除し、確からしいことを論理的に承認するプロセスである。幽霊だろうが水伝だろうが、現象が存在すればそれはすべて科学で扱う事が出来る。個々の現象の説明が正しくない事はあるだろう。それらを修正し、新しい知見とするプロセスもまた科学である。

だから話は簡単である。現代科学の閉塞を打ち破るには、科学を支配している石頭の科学者どもに否定できない客観的な事実を突きつけてやればいいだけだ。ほら見ろ、何度実験しても誰が言ってもどこでやっても「ありがとう」と言うと奇麗な結晶になるじゃないか! と石頭どもに見せつけてやればいいのだ。ぐうの音も出まい。ざまあみろ!というようにね。

もちろん、客観性と論理性に基づいた承認プロセスそのものが正しくない、限界だと主張することはできる。しかし、その主張に基づくならば、私には何を拠所にして事実を判断すればいいのか分からない。もし、それを過不足無く判断できるのであれば、それは神の御技というものだろう。もっともオカルティストや創造論者などは、そういった神の領域を求めているのかもしれないが。「現在の科学は行き詰まっている、科学こそが人間の自由な発想を妨害している」と科学の限界を主張することは、同時に人間の発想や知性の否定なのだ。何とも皮肉な話である。